Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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3

明野D




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この記録には、日付も調査/記録者名も記されていない。記録形式も、分析方式も、げんみつ厳密
に特定出来ない様に加工されている。おくそく憶測だが、以下の準対話形式の記述全体が『アリア
ドネ・クラブ』の『超遅発性強度外傷効果affect/release and analyse触発・分析プログラム』の記述をぎそう偽装している
可能性が高い。もしそうだとしても、この『アリアドネ・クラブ』のプログラムを偽装し
たプログラムの発送者も『アリアドネ・クラブ』に関わる誰かに違いない。無論、その発
送者は、俺を宛先として間接的に調査/分析を依頼してきた誰かである筈だ。だとすると、
これはその誰かによる、その誰かの光景の間接的な情報ろうえい漏洩操作、つまり俺に仕掛けられ
た罠なのか? 宛先はこの俺なのか? 一連の依頼の略完璧なタイミングから考えて、恐
らくそうだろう。この俺に贈り与えられた誰かの光景――それがこの俺自身のしく仕組まれた、
だが決してのが逃れられない光景/現実となって、この俺をおそ襲うのだ。そうやってこの俺は消
され、「最早誰でもない誰か」に成るのか? だが一体誰の罠だ? 
――誰の罠かって? 問い自体が、有り勝ちな罠に嵌っている。それは寧ろ、極く有り触
れた、人々の噂なのだ。プログラムは全て、その噂のしょくばい触媒に過ぎない。プログラムが「かいとう解凍」
されると同時に、言表へと変換された噂の〈光景〉が展開され、お前自身の〈現実〉と成
る。つまり、お前自身が、その噂そのものと化すのだ。
――しかしそれは、あらゆる場面における予め用意されたテキストの繰り返しという、俺
たちの現実に過ぎない。そう、何も恐れることはないさ。お前だけじゃない。誰だってそ
うなんだ。到る所に俺たちの苦しみが、そうしなければ生きていけないという苦しみがあ
る。そうしなければ他人と片時もやっていけないという苦しみが。たったそれだけのこと
なんだ。誰だって同じさ。誰だってそんなことは疾うに知っている。お前だけじゃない。
お前だけじゃ……。
――そう、やっと分かった様だな。ついさっきも誰かが言ってた様だが……俺たちの自己
とは、あの仕込みの道徳と飼い慣らしの道徳による訓練のプロセスなのだ。
――訓練……俺もまた、そいつがどれだけ俺たちの自己に深く食い入っているかを知った。
それが最早不可能になった時に。……その時、ふと俺は舗道に立ち止まった。透き通ったさわ爽
やかさが、雨にぬ濡れた舗道のさび寂しさを静かに湛えている。確かに俺は其処にたたず佇んでいた。
其処には誰かが立っている様な気がした。誰かだって? 俺は呼び止めようとしたんだ。そ
の時確かに俺は……。俺の眼の前に佇んでいるこの俺の顔がこの俺の眼の前でぐにゃりと
ゆが歪み、ゆっくりと溶けて、どろっとくず崩れ落ちていった。音もなく。その時俺は、俺自身に
穿たれた空ろな穴から流れ落ちる何だか分からないモノを眺めながら、不意に思い起こし
ていた。ああ、ついこの間も何故か点けっぱなしのディスプレイ画像で見たな。あのウル
トラマンの顔は、すっぽりと刳り貫かれたみたいだったが、この俺の場合はこうか。いや嫌だ
な。全く。これから一体どうするんだよ、お前は。どこへ行く? どこでどうする? もう、
どこにも帰れない。……俺じゃないんだよ、俺じゃ! 何で俺しかいないんだよ。ここには。
俺じゃない誰かがやった筈なのに。俺がやったんじゃない。俺はやられたんだよ。嘘じゃ
ない、この顔を見てくれ、ひど酷いだろ、ドロドロに溶けてもう無くなっちまってるよ。やら
れたんだ、やられたのは、この俺なんだ。俺がやったんじゃない。やられたこの俺が、こ
の俺をやるわけないじゃないか。俺の顔は、いや俺自身がもうやられて無いっていうのに。
いいか、俺はもうやられちまってるんだ。身体中溶けて無くなってるよ。それなのに、一
体何でここには俺しかいない? ここはどこだ? 一体この部屋は……。例えば其処には、
あの遠い昔のテキスト空間があった。ほら、忘れたなんて言わせないさ。憶えているだろ?
……即ち、『神の存在と魂の不滅を論証する第一哲学についての省察』(Meditationes de
prima philosophia, in qua Dei existentia et animae immortalitas demonstratur)。 それ
はこの俺に、いや俺たち全てに教えていた。自己を「この私」として造り上げていくしんく辛苦に
満ちた訓練に失敗した時、俺たちがどれ程恐ろしい罠に見舞われるかを。……「この私」
が何の証明になるって言うんだ?
――お前は、「この私」は、ついさっき、もう溶けて無くなっちまったんだよ。そう、勿
論、お前はやられたんだ。そう、認めるよ、お前の言うことを。心から。確かにお前はや
られたんだ。この俺たちに。俺たちは一部しじゅう始終を見ていたよ。お前の一部始終を。俺たち
がお前の証人だ。唯一のな。つまりお前のことだよ。お前がその唯一の証人なんだ。お前
自身の。だからお前には、もう希望はない。(証明終り) だからこそ、俺たちがお前に救い
の手を差し延べるんじゃないか。生まれ変わったお前を、俺たちのこの手で造り換えるこ
とによって。……そうだ、俺はもうすっかり溶けちまったロウ人形に過ぎないんだ。もう
無いんだよ、全然。分かったか? お前は、もう無いんだ。無実を証明しようにも、もうど
うしようもないんだよ! 何故かって? お前はいつも、何をしゃべ喋ろうにもしどろもどろで、
つまりはマトモじゃないからだ。最後のとりで砦を失っているんだよ、お前は!「記憶」どころ
の話じゃないんだ! (未だに「記憶」に頼るのは、そしてそれにしゅうちゃく執着するのは、どうし
ようもない愚か者だけだ。全く面白い……。一体誰の記憶だって言うんだ?)だからお前
は、すっかり溶けちまったロウ人形に過ぎない。それ以上の何ものでもないのだ! そう、
何も驚くことはない。なげ嘆くことも。そう、誰だってそうさ。だからこそ、皆訓練するのだ。
この世間で生きていく以上は。それがどれ程苦しくとも。お前だって知らない訳ではある
まい。それに失敗して滅びていったあの多くの者たちのことを。そこにはお前の愛する者
さえいた筈だ! 勿論お前自身もだ。だからこそ、その耐え難い苦しみから遠ざかる為にこ
そ、俺たちの日々の訓練があるんじゃないか。一体何の為の訓練かって?幸福を目指して
かって? そんなことが誰に答えられるだろう。逆なんだよ。俺たちは、力の限り不幸から
遠ざかるんだ。出来るだけ遠く。出来るだけ遠くにだ! そうしなければ片時もやってい
けないというその苦しみを敢えて引き受けることによって。それがどれ程多くのものを俺
たちから奪い取るか分っていてもだ。最早俺たちは、この世界では、たとえそれが見せ掛
けでしかなくても、そうすることしか出来ないんだ。
――たとえ最早むだ無駄なことでも、一度だけ聞いておきたい。不幸とは何だ? 
――……つまりこうだ。俺たちに課せられているのは、他人には聞こえない自分だけの声
と、誰でもいい他人に聞かれ得る声を重ね合わせるという絶え間ない訓練だ。じゃなけり
ゃ、この世間では、妄想か、或いはもっとずっとたち質の悪いものでしかない。何をお前が考
え、呟き、他人に喋ろうとな。これが不幸な状態だ。最早誰一人、手を差し延べない……。
しかし、本当にお前は気付いているだろうか?まさにここに罠がひそ潜んでいるのだというこ
とが。
――気付いているとも。この俺こそがその罠の中にいる。だが、この俺が、この自分の声
でそれを言う訳にはいかないんだ! 
――そう、そうとも。ヘヘ。お前は罠に落ちた。あ、そうそう。お前の時計は別に盗まれ
た訳じゃない。そんな必要は更々なかったさ。お前は最初から時計を持ってなかったか、
もし持ってたとしても、お前自身が気付かない内に自分でぶっ壊しちまったからだ。丁度、
カラ―タイマ―を付け忘れてやって来た、あの季節外れのウルトラマンみたいに………

――既に其処にいない、しかし確かに其処にいた筈の、そして今も其処にいるかも知れな
い、いや、直ぐ其処にいるに違いない見知らぬ?他人……。その見知らぬ?他人によって
引き起こされた、恐るべき、信じ難い出来事。それについて誰もが口を閉ざした瞬間から
……。 
――同じコイン、つまり噂の裏側としての永い沈黙が始まる。 
――そう、この街が、人々の前からすっかり消えてしまった様に。そしてお前たちが皆、
その街の奥底へと閉じ込められてしまった様に。 
――さあ、それでだ。どうなるかって? 一体どうやって、こんな変な、いや何の変哲も
無い街が出来たのかって?  
――それはこうだ。先ず、自分だけに聞こえる筈の声は消える。 
――そして、誰でもいい他人に聞かれ得る声も。 
――つまり、自分=皆=世間は永遠にも似た空白地帯へと落ち込んでいく。 
――私にとってこの私の独り言は恐ろし過ぎる。その独り言が、誰でもいい他人に聞かれ
てしまうことも。 
(「そうだ……やつらがやったに違いない。いや……本当はこの俺が? 何だって? この
俺が、一体何をやったって言うんだ! ふふ、可笑しいな、お前が一番よく知ってるくせ
に。消えるということ、消すということ、そして消されるということを……」)
――そして、その他人の独り言を聞いてしまうこともだ。
(「ほら、あそこんちの、あの人よ! あの人って……もしかして、いやだ! ほんとにこ
の私のこと? そうそう、そうなのよ、未だ赤ちゃんの時から、ずうっと同じ場面ばっか
り見せられてね、それで頭おかしくなっちゃって、それにああいうことが続いて、一度お
風呂にでも入った時に素っ裸にして見てご覧なさいよ、ふふ……もうカラダもめちゃくちゃ滅茶苦茶な
んだけど、そう、そうなのよ、実を言うとね、あれ、何故だか未だあの家にいるのよ、あ
の家に、でね、その家ったら、実はあそこなのよ、あそこ、あそこだっていうんだからおどろ愕く
じゃない、皆知ってるわよ、そう、そうなのよ、ここなのよ、ここ」)
――え? そうなのかって? まあ、そうあせ焦らないでくれ。例えば、あくまで例えばだよ。
で、つまり…… 
――誰でもいい他人との、この私の独り言の交換、言い換えれば噂もまた恐ろし過ぎる。
最早、絶対的な沈黙しかない。 
――だが、ここがかんじん肝腎なんだが、実はこの沈黙こそ、あの訓練の仕上げなのだ。 
――即ち、他人には聞こえない自分だけの声と、誰でもいい他人に聞かれ得る声を重ね合
わせるという絶え間ない訓練の仕上げだ。 
――そう、まさにそれを口にすることが其処にいる者たちにとって不可能だったのだが…
… 
――ねえ、聞いて、聞いて。今私とってもコワイことに気付いたわ! そうだ! もし、
この噂/沈黙が、何者かによって密かに盗み取られた、或いはいやおう否応なく奪い取られた「誰
かの告白」と重なり合っていたとしたら…… その誰かは、人々の噂/沈黙、つまりその
「誰かの告白」が展開する光景――現実の世界――へと追放されて、完全に忘れ去られ、
消されてしまうことに成る。でもそれって、誰によって盗み取られ、奪われた、誰の告白
かしら?
――勿論誰でもないさ。そう、誰でもいいんだ、この噂と沈黙の街では。その誰かが追放
される噂/沈黙の光景、そして同時に現実の世界こそ、この街自身なのだから。余りにそ
れを語ることが恐ろしければ、誰か一人だけが、たった一人だけがその真実を語ったこと
にすればいい。この街では、いず何れにせよ、それは現実の光景となって展開される。とにか
くもう、時間が無いんだ。
――やべえ! この時計もうぶっ壊れてるぜ。 
――(ふふ……そうかい)そして、真実を語れるのは、実際にその真実を生きた者だけだ
ということになる。 
――で、もしかして俺ぎりぎりセ―フ? 消される前に? 
――……いや、逆だ……お前の告白通りにお前はそれを生きた……即ち……「恐るべき、
信じ難い何か」をやったのはお前だ……後ろを見てみろよ、変な連中がさっきからお前を
じっと見詰めている……その時お前が……いや、正直に言おう、それは私かも知れない…
…つまり誰もがそうなり得るのだが……その「恐るべき、信じ難い何か」を演じた者に仕
立て上げられるのだ……

 ――さあ、答えなさい。「あなたは一体誰なのかしら?」

(遂にキレちまったやつらの喚き声。ケ、今更何びびってんだ、こいつら) 
 
 ――げ、裏切る気かよ! マジかよ、これって。よお、嘘だろ! ……あいつが俺たち皆
に消されてからよお、もう時間がねえんだよ、なあ、時間がよ! そうだろ? ヘヘ。だろ? 
ヘヘヘ……俺、もうやだよ、早いとこ、こっから出してくれよォ、ヒヒ、ちっきしょう!
なんで誰もいねえんだよ! ここ真っ黒じゃねえかよ! 何も見えやしねえ! 何も聞こ
えやしねえよ! 何か始まるのかあ? あの糞オヤジどこに逃げやがったんだよォ、誰か
教えてくれよゥ……

10
 次の日のゆうぐ夕暮れ時、俺はカウンタ―バ―『密緒』の扉を叩いていた。何故かその日はも
う店じまい仕舞していた。だが、昨夜俺が発見した恐らくは偽装されたあの記述を、『アリアド
ネ・クラブ』のプロトタイプ原型デ―タベ―ス『貴方自身への素晴らしきcruise航海を!』に登録済みのソ―
ス・プログラムの記述とつ突き合わせてみたかった。間違いない。鍵はその中――つまり、
予定されたその記述通りに展開される誰かの〈光景〉の中に在る。この俺の残り時間をと解く
鍵は……

――ややしばら暫くして、店の扉がゆっくりと開かれた。開けはな放たれた扉の奥のその〈光景〉
が、ふと気付くと、何かの操作で切り替えられた次のscene場面として既に其処にあった。この
俺を待ち受けていた、予定された言表の様に。確かに、予定された言表が、無数のディス
プレイに展開されていた。変にまの間延びした様なつか束の間だった。時空の波間にただよ漂っていたか
の様だ。からだ身体中に冷たい、不思議とねっとりとした液体がし染み通っていった。まるで未知
の生き物の様に。
何かで刺しつらぬ貫かれた様な痛みが走った。
一体何だ?

部屋の出窓からなな斜めに射し込む黄昏の光が、その人の背後に延びる影の地帯を包み込ん
でいる。叫び声だ。その人の陰から? 其処に、誰がいる?
その人の顔は、あの何の変哲も無い人々の様だった。眼球に赤外線暗視スコ―プが連結さ
れている。降り注ぐ赤い光の束の映像が、俺の脳裡で繰り返される。あの画面に流れる鮮
血が、一瞬視界をよ過ぎる。それと共に、俺には聞こえない筈の声が聞こえてくる。この俺
の脳裡の、鋭い痛みと共に――いつもと同じ、点けっぱなしのディスプレイ画像の彼方か
ら……

「さあ、おいで……逃げないで、私の、可愛い娘……」

……糸の様に細長く伸びた革のひも紐で堅くしば縛られ、よくそう浴槽に沈められていたぜんら全裸のからだ身体がゆ
っくりと引き上げられ、彼女の腕の中に包み込まれるのを俺は見た。彼女は、深紅の液体
にそ染まったその娘の身体をあいぶ愛撫しながら洗っている。彼女の一瞬の横顔が、俺の脳裡で暗
視スコ―プの映像に切り替わる。彼女も又、全裸の肉体をなみう波打たせている。彼女のしな嫋やか
な指が、今、背後から娘の影のくちびる唇の奥深く入り込み、内部をしつよう執拗には這い回り始める。まる
で未知の生き物の様に。いつかどこかで出逢ったあの娘が、彼女の腕の中で声に成らない
叫びを繰り返す。倒れたカクテルグラスからゆっくりと溢れ出したギムレットが、今、娘
の影の唇の奥から流れ出る体液とま交じり合っていく。傍らでは、いつもと同じ点けっぱな
しのディスプレイ画像が揺らめいている。溢れ出る深紅の鮮血が画面に流れ続ける。その
映像は、カウンタ―テ―ブルの背後にセットされた装置をちゅうけい中継して、無数の集合ディスプ
レイへと転送されている。或いは、際限も無く増殖する、あの蝿の複眼の様な、何の変哲
も無い人々の眼差しへと? ……もう、ここには誰もいない……そうなんだ……「この私
/俺」が、一体何の証明になるって言うんだ……?
………………………………………………………………………………………………

「私、あなたを全ての人間にとっての他者に育てたかったの。私にさえ、成れなかった…
…危険な、見知らぬ他者に」
「密緒……」
「違う……私に名前なんて無いわ。それに、あなたに、まともな記憶なんて無い。そして
私にも。そう、そんなものは最初から……」
「嘘! ……じゃあ、あの噂の中の人は誰なの? それに、《もう一人の私》は一体どこにい
るの?」
「ああ、あれね。何故か『オヤジ』って呼ばれてた……。どこかの工場のことでしょ、き
っと。でも、もしかしたら、それは私のことかも知れない。或いは、永い時の中で際限も
無く繰り返されて来た、私たちの死と再生という出来事……。それから、あなたの言う《も
う一人の私》のことだけど、もしそれが……私じゃないのなら、つまり私のコピ─じゃな
いのなら……それはもう一人のあなたでもないわ。そう……あなたたちは、私のコピ─じ
ゃない。其処に私の、或いは私たちの苦しみがある……。だからこそ、試練と訓練が必要
になるの。つまり……一つの、殆ど不可能に近い、終わり無き逆説。私があなたたちを、
私の娘たちを造り上げ、私の欲望のまま儘に育て、しかも私たちが共に――嘗て存在しなかっ
た――危険な、見知らぬ他者に成るという果ての無い試練と訓練が……。
そう、それはたった今始まったばかり。分ってもらえるかしら? 実の所を言うと、未だ
あれから少しも時間は流れてないのよ。私たちの――私と私の愛する娘たちの本当の時間
は。私たちに最初からまともな記憶なんて無いわ。分かるわね? ……そう、そのことは
あなたにも分かっていた筈。ついさっきも、あのプログラムがあなたに言ってたわね。お
前の時計は別に盗まれた訳じゃない。そんな必要は更々なかった。お前は最初から時計を
持ってなかったか、もし持っていたとしても、お前自身が気付かない内に自分でぶっ壊し
たからだって……
――私は繰り返しあなたたちの肉体の奥深く入っていった。ありとあらゆる方法で、全
てが、或いは何かが取り返し様も無く壊れる迄。私はあなたたちの肉体を、果ての無い迷
宮にしてしまいたかったの。決して誰のものでもない様な。その迷宮で全ての者が嘗てのくさり鎖
からと解きはな放たれ――あら新たな、見えない鎖に永遠につな繋がれる。そんな、嘗て存在しなかった
何者かが際限も無く増殖していくの。……〈自己〉という究極の植民地が際限も無く生産
される。それはとても素晴らしいことだわ。違うかしら? そうでしょ? 何故って、他な
らないあなた自身がそれを受け入れたの。分かるわね? だからあなたは、頭おかしくな
っちゃって、自分で自分を滅茶苦茶に壊した、ということになった。それはあなた自身が
選び取ったことだわ。最早あなた自身を失ったあなた自身が。それが、あなたに仕掛けら
れた自分=皆=世間の罠。
――そう、あなたの言う通り、「この私」が一体何の証明になるって言うの? 嘘じゃな
く、本当に……。
でも、不思議ね……。何故だか、私には分かるの。もうあなたは……あのプログラムが、
偽装された、あなたに仕掛けられた罠だということを知った。あなたは、実験の過程でい
つか私の元から逃げた、あの《もう一人の娘》に出逢うことになるわ。恐らくその時は、
既にせっぱく切迫している。あの娘とあなたが出逢う時、あなたたちはこの私を失う。最早取り返
し様も無く。でもそれは、この私が最も望んだこと。そして同時に、私が最も恐れること
だわ。つまり、この私が望んだのは……一つの、殆ど不可能に近い、終わり無き逆説だっ
た。私があなたたちを、私の娘たちを造り上げ、私の欲望の儘に育て、しかも私たちが共
に――嘗て存在しなかった――危険な、見知らぬ他者に成るという果ての無い試練と訓練
……。あなたたちは、この私から逃げ、いつかきっとこの私を滅ぼしにやって来る。私が
創り出したこの植民地(の産物)であるあなたたちが、この街/植民地を生み出したとさ
え言えるあなたたちが、いつかこの街/植民地を滅ぼす最も危険な、見知らぬ他者になっ
てやって来る……。
――もしかしたら、あなたたちはもう出逢っているのかも知れない。もうその時は来てし
まっているのかも知れない。仮令そうであっても、この予定された実験の最後の扉が既に
開かれたのだとしても、私には、決してそれを確かめることは出来ない……。
……私には出来ないの! その時、嘗て無かった〈光景〉の中で、私は私自身を消すこと
になる。最早私ではない私が。その時、この私を消すのは……」



――ヴァミリオンの夕陽が射し始める直前の、不思議と静まり返ったあの時刻……。街
外れの舗道に、一人の娘が立っている。その娘は、其処にいたのだ。そして、その時を、
ずっと待っていた。娘の呼び声が聞こえる。この私に呼び掛けている。その声に、私も呼
び掛ける。

それは、もう一人の私じゃない。


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